2023/12/06

体調不良のとき

こどもが集団生活で感染症を持ち帰ることは日常茶飯事ですが、親もそれをもらってしまうことだってあります。いくら感染予防の知識があっても、きちんと実践するだけの余裕がなかったり、添い寝していれば、夜中知らない間に顔が急接近していたり・・・あるいはホルモンバランス、加齢にまつわる様々な不調、もともとの持病など、大人になっても体調不良を起こすことは、当然といえば当然です。


でもそんな時にも子供たちは待ったなしです。親子で一緒に体調を崩していたら尚更です。身近に助けてくれる人がいればいいですが、自分の親は高齢化していてむしろ頼むのが心配だったり、そもそも体調不良はほとんど前触れなく訪れるから、急に頼るのが難しいことだってあります。


そういう時、私は不幸のスパイラルに陥ってしまうことが度々あります。しんどいけど一人で頑張らないといけない状況で、体が辛いので心の余裕もなくなり、子供に色々要求されるといつも以上に短気になってしまいます。そこで子供にあたってしまい、ますます自己嫌悪に陥り、すぐに頼れる人がいない自分の状況(本気で探せばいるのでしょうが、もう不幸モードなのでその発想は出てきません)を呪います。こうなると私も子供もみんなお通夜みたいな表情です。


思考モデル(なにそれ?という方は「コーチング」の記事をご参照ください)に当てはめてみると


C事実: 自分の体調不良

T思考: しんどいのに誰にも助けてもらえない

F感情: self-pity私って不幸

A行動: どれだけ体調が悪いか、症状を再確認する。

いつもと変わらない子供の要求も、自分を不幸にするための嫌がらせに聞こえる

子供の要求には応えず自分でやるように冷たく言い放つ。

今現在助けの手を差し伸べてくれていない身近な人の顔を思い浮かべ(主に夫)、過去にも不在で助けにならなかった時を思い出し、心の中で恨みを増幅させる。

助けてくれそうな人を探すといった、建設的なことはしない。

子供が助けの手を差し伸べようとしてくれていることにも気づかず、孤立する。

R結果: 周りの援助を自分から拒絶している


この思考回路ではいい結果はなかなか生まれませんよね。


ところで、こういう自分って可哀想と思ってしまうself-pityというのは、ストレスに対する一種の適応、positive intelligence でいうvictim被害者というsaboteur妨害者なのです。幼少期に何らかの理由で親や、周りの大人からの愛情が不足したように感じたとします。実際に身体的、精神的虐待などの場合もありますが、幸せな家庭で育っていても、例えば弟妹の出生や、学校での人間関係でそう感じることだってあります。その時に、self-pityで少しは気持ちが癒されることに気がつき、次第にパターン化して行ったものだそうです。周りにいませんか?なにかと不幸を自慢したがる人。


この反応が良いとか悪いとかではなく、幼少期には心の健康を保つためにそれなりに役に立ったパターンなのです。しかし、理性の発達した大人ならば、もっと建設的な思考パターンがあるのも事実です。pity憐れむではなく、自分をちゃんとみとめる、評価するということです。


先ほどと同じ状況で、代わりとなる、もっと建設的な考えにすり替えます。


C事実: 自分の体調不良

T思考: たまには休めっていうことかな

F感情: 優しさ

A行動: どうやったら回復するか考え、体を温める、薬を飲むなどの行動に移す。

子供には、自分の体調と、いまできること、できないことを説明する。必要なら繰り返し話し合う。

必要最低限やらないといけないことだけ考え、子供と協力して済ませる。

家事や、日課が多少できなくても、自分を追い詰めない。

助けてくれそうな人にあたってみる。

R結果 身も心も休息を得られる


といった感じでしょうか。

長年慣れ親しんだ思考パターンですから、建設的な考えにすり替えるのは、一朝一夕とはいきません。そこで

私は、体調不良の時には思考力も落ちることを踏まえて、体調不良プロトコールというものを作って、いざという時に見れるよう洗面鏡の扉の内側に張り出しています。目に入りやすい方がいいけど、毎日何度も見るところだと風景になっちゃって見るのを忘れるかな、というのと、来客に見られるとちょっと恥ずかしいので笑。張り紙はちょっと、という人は手帳にメモするのでも構わないと思います。「最低限やらないといけないこと」や、自分の思考パターンに先回りしていい方向へ誘導するような標語を書いています。


「まず必要な薬を飲む」

「たまには子供のご飯もコンビニでもOK。絶対喜ぶし」

「保育園の準備が不十分でも、園で何とかしてくれるから大丈夫」

「お風呂で体を温める」

「でも、しんどすぎたら、1日くらいお風呂に入らなくても死なない」


などです。

頭痛がひどくて頭が働かない時などに、このプロトコールを見る、という作業だけ思い出すことができれば、悲観的になる前に、そうそう、そうだった、と行動に結びつけることができます。同じ手法をダイエットに応用すると、例えば生理前に食べ過ぎて太りやすいとか、生理中は偏食になる、とか、特定の体調で食事のパターンが変化する人は、自分の食事パターンを把握した上で、生理にまつわるプロトコールを考えるのもおすすめです。


前例の「不幸スパイラル」に限らず、慣れ親しんだ思考パターンというのは、特定の神経回路が強化されていると考えると、その都度行動を修正して神経回路の使用頻度が下がれば、神経のつながりもだんだんと弱まり、いずれはそこから脱却することも可能です。習癖を治すのと同じで、繰り返しの努力は必要ですが、決して不可能ではないということです。そもそも癖になっているということは、自分にとってその行動に何らかのメリットがあるわけで、あえてデメリットに目を向けたり、新しい習慣に変えることのメリットを繰り返し意識しなければ、卒業するのは困難でしょう。頑張っている途中で昔の癖が出てしまうことも、当然のことであって恥ずべきことでもないし、それまでの努力が無になるわけでもありません。そういうときは「あ、間違えた、今はこう考えるだった」と軌道修正すればそれで済むことです。


体調が悪い時は、精神的にも弱ってしまうことは誰だってあります。気合いで乗り切るだけではなく、自分を適切に労わることで、周りにも良い影響を与えられそうです。緊急時の酸素マスクは、まず自分が装着してから子供のを装着する、という原則は、精神的ストレスにも言えるこで、自分に優しくできないと、人に優しくする余裕がなくなります。自分を労ることは、周りを労わることでもあると思って、体調がすぐれないときは無理をし過ぎないでくださいね。

2023/05/12

ワークライフバランスとは?

家庭の事情で仕事量を減らさないといけない時期って、産休や育休を含めて誰にでも起こりえますが、まだ経験していないという人もいるかもしれません。そういう時期があったという人、あるいは未経験なら想像してみて下さい。仕事を休まざるを得ないと分かった時、どう思いますか?

「穴をあける」「同僚に迷惑をかける」


そう思うかもしれません。でもこれは客観的事実ではない。

同僚の仕事量が相対的に増える可能性がある、これは事実かもしれません。

それを迷惑と受け取る同僚もいるかもしれないが、それはその人の私見であって、普遍的真実ではない。


例えば、大切な家族や親友がそういう立場になったら、なんと声をかけますか?

「元気な赤ちゃんを産んでね」「手伝えることがあったら言ってね」


あるいは、ほぼ全員女性の職場を想像すると、おそらく「お互い様」という認識が強まります。いつか立場が逆転する可能性があるので、不平等感が弱まるのかもしれません。ただそういう中でも、少数派で働いている男性や、子供のない人は心の中でどう思っているのかはわかりません。


そもそも、仕事上の「equality平等」ってなんなのでしょうか?

同じ仕事を与えられていても、個人の得意不得意、経験値あるいは仕事の効率、ときには運や「引き」によっても努力量は変わるので、結果的に平等になってないかもしれないですよね。管理者が、個人の能力や状況に見合った仕事の采配を考えているのであれば、平等ではなくequity公平を優先しているだろうし、給与だって労働量や努力の量に比例しているわけではない。


世の中の全ての人は、その人なりに精一杯やっているし、常にベストを尽くしているという考え方があります。

ベスト自体が、個人の経験値や能力、精神状態などによって千差万別なのです。


周りから見ればサボっているように見えたり、楽をしているように見える人でも、その人なりの背景や経験に基づいた「持続可能な」仕事量に調整しているのかもしれない。例えば、その人は家に帰るとものすごく手のかかる家族が待っていたり、実は持病を持っていたり隠れた発達障害がある、あるいはLGBTQとか大きな悩みを抱えていて、自分の存在自体に思い悩んでいるのかもしれないけれど、そういうことは仕事中には見えない。


もしあなたが妊娠を伝えた後に、上司の態度が冷たくなった、あるいはマタハラまがいのことを言われたとしても、それはあなたが抱え込むべき問題ではないのかもしれない。


その上司は、来るべき仕事の再分配に頭を悩ませているのかもしれないし、その結果の態度の変化なのかもしれないが、その上司の理想とするような「職場への影響が少ないように妊娠の時期を調節する」とか「部下が誰も妊娠しない」のは根本的解決策ではないし、人員の補充や仕事の再分配は、少なくとも産休を取る人間の仕事ではないだろう。産休を取る人は、お腹の中で一人の人間を育てて、無事出産を迎えることと、育児という大仕事が待っている。それを上司が理解できないとしたら、それは、時代の流れに鈍感なその上司の育児経験と想像力の欠如のせいであって、決してあなたの責任ではない。そして、そういう人間であっても管理職になれる、日本という国の時代遅れで男性中心の文化の反映でしかない。


そして、社会全体として育児分担の考えが浸透しない限りは、日本の出生率は上がらないのではないかしら・・・というのはだいぶ私の個人的考えが入っていますが。


マタハラにあっても耐えて、仕事復帰後も馬車馬のように働いて仕事も家庭も頑張ったりして、自分一人で戦う、というのも一つのやり方だし、今までたくさんのお母さんたちがそうやって乗り越えてきたのも事実だと思います。でも、自分の娘が出産する時のこととかを想像したら、やっぱりこのまま継承していくのは可哀想な気がします。とりあえずは身近なところから、ちょっとずつ変えていく方法を模索しています。

2022/12/14

母親になったことを後悔

約4割の母親が子供を産まなければよかったと思ったことがある、という調査結果があります。

その背景には母親としての責任の重さ、母親らしさといった世間の期待などがあるのでしょうか。後悔までいかなくても、「思ってたんと違う」という感覚を持ったことがあるお母さんはもっと多いのではないでしょうか。


私の場合、産まないほうが良かったと思ったことはまだありませんが、私が産んで良かったんだろうかと思うことはよくあります。例えば子供にきつく当たってしまったりした後は、自己嫌悪とともに、こんな母親で子供たちはかわいそう、やっぱり私には無理なんだろうかと落ち込みます。


その根本には、母親とはこうあるべきという理想像があり、自分の中の矛盾が見えるとスイッチが入ってしまうようです。では、自分がどんなお母さんだったら自信を無くさずに済むのか考えてみると、


保育園の提出物などの管理ができていて、基本的には忘れ物をしない

家は片付いている

肌に触れるものは清潔を保つ

家にいる時は栄養バランスの取れた手料理を食べさせる

子供の身長体重を基準値内に収める

虫歯を作らないよう、仕上げ磨きとフロスは365日欠かさず行う

毎晩入浴させて清潔を保つ

アトピーの外用薬を毎日適切に使用する

夜9時半までには寝かせる

テレビや動画の試聴時間はなるべく短く

発達に良い外遊びや創作的な遊びをさせる

教育や、将来役に立つ習い事には金銭や時間を惜しまない

習い事の送り迎えの安全を確保する

自分のできる範囲で怪我や病気から守る

服薬を忘れず続ける

休日は子供が楽しむことを第一にスケジュールを組む

兄妹で不公平感が生じないよう気を配る

きつい口調で叱らない

スキンシップや愛情表現を欠かさない

ダメなことはダメと伝え、正当な理由なしにルールを曲げない


ザッとこんな感じです。

ちょっと医師目線の基準も入っているかもしれませんが、一つ一つをみると、それほど極端な基準はないと思っています。


ここへさらに仕事をする上での基準というものが加わります。子供が生まれる前、手術をバリバリしていた頃と比べるとだいぶ項目が減っていますが、こんな感じでしょうか。


遅刻しない

患者さんに起きる様々な問題に対しては、その時自分にできる最善の対応をする

患者さんや家族の信頼を得るため話をよく聞き、こちらの方針をなるべくわかりやすく伝える

他職種と普段からコミュニケーションをとり、協力体制を保つ

書類などの雑用は貯めない

頼まれた仕事に関しては(できるだけ)嫌な顔をせず引き受ける

誤解の生じにくいよう表現を工夫して指示を出す


このような基準を持っている上で問題になるのが、この一つでも基準に達していないと、つまり100%合格でないと、母親・勤務医として不十分という感覚が活性化されてしまい、自分が望んでいない結果を産んでしまうのです。思考モデルを復習すると、脳内の無意識な考えが気持ちに、気持ちが行動に、行動が結果に結びつくのですが、この場合「母親として不十分」という考えが「自己嫌悪」だったり「がっかり」という気持ちに、その気持ちが子供にキツく当たる、家事をやる気が起きない、といった行動に結びつき、最終的に、やはり自分が母親として不十分であることを証明する、という結果を産んでいるといことです。脳は常に、自分の考えの正当性を証明するような行動を選ぶので、無意識の考えというのは放っておくと危険なこともあるんですね。


このような基準を無意識にでも持っていることは、健全なことなのでしょうか。普段から9割守れている状況なら、持ち続けても問題ないでしょう。でも私の現実はだいたい30−40%でしょうか。疲れていたり体調が悪い時は特に得点が下がります。そうすると毎日、上に書いたような思考サイクルが働いてしまい、子供にキツく当たることも増えてしまいます。


こういう時、自分の列挙した基準の中で優先順位をつけてみてください。その際に、なぜそのような基準ができたのか、よく考えてみることです。その基準が守れないとどうしてダメなのか?そして、その理由の正当性を問うのです。


例えば保育園の提出物をしょっちゅう忘れる母親ってどうでしょう。「ルーズ」「先生に迷惑をかけている」「子供が影響を受けたらかわいそう」という厳しい意見もあるかもしれません。では実際に提出物を忘れるとどうなるのかご存知でしょうか。私は常習犯なのでよく知っているのですが笑、先生が「◯◯の用紙がまだ出ていませんでしたので、◯◯までに持ってきてください」と教えて下さったり、用紙を無くしてしまった時にはもう一枚くださったりして、最終的には遅れて提出はできているのです。先生に余計な手間をとらせていることは確かですが、それもひょっとすると害ばかりではないかもしれません。そこで自ら「ルーズ」などとマイナスなレッテルを貼ることは、そうやって自分を叱咤することで次に同じ失敗をしないで済むのならまだしも、私のような常習者にとっては百害あって一利なしです。それよりも、今後どうやったら提出物の紛失を防ぎ、締め切りに間に合うよう管理するのか、作戦を立てる方がよっぽど建設的で効果もあります。


このようにして、自分でいつの間にか決めている様々なルールには、その裏に「世間の常識」という名の、仮面を被った悪魔が隠れていることが多いのです。世間の常識に何の苦痛もなく従えるならいいのですが、誰にだって不得意な分野や、その人特有の事情というのはあって、そういう理由で世間の常識とは少し違うことをしているだけなのに、劣等感や罪悪感を抱いてしまうというのが我々、特に女性によくみられるパターンなのかもしれません。


自分の中でいつの間にかできた「守るべき基準」が、実はバカらしい理由からできていることも多々あります。ぜひ一度ルールを「それって本当かな?」と疑ってみてください。そして本当に大事な基準と、そうでもない基準を区別し、少しずつ取捨選択できると、徐々に行動や結果に変化が現れるでしょう。


「私ってダメな母親だな」とか「またやっちゃった、何やってるんだろう」というような頭の中の批判的な声というのは、私たちが同じ失敗を繰り返さないよう、脳が大袈裟に警報を鳴らしてくれている結果生じているものです。でも先ほどの思考モデルの例でもわかるように、あまりいい結果に結びつきません。そういった反射的なネガティブな考えを鵜呑みにするのではなく、あ、また脳が大騒ぎしている、と気がつくことができれば、一呼吸おいて冷静に改善策を思いつくことも可能になります。


以前私は保育園の先生に言われる一言一言が批判のように感じて、反射的に言い訳や自己防衛のような反応を示していた時期がありました。今では先生のコメントを一意見としてありがたく聞けるようになり、自分で吟味して必要と思えば反映させることができるようになってきました。いまだに提出物を忘れることがあるのは、おそらくどこかで「まあどうにかなるやろ」とか「別に大したことないか」という甘えが残っているからでしょう。


最後に、私はほぼワンオペ育児ということもあり「妻としての基準」が非常に低いところにあっても許されているという、一部では恵まれた状況にあることも付け加えておきます。多くのお母さんは、自分の中の母親像に加えて、旦那さんやお母さん、義理のお母さんなどの基準も背負い込んでもっと肩身の狭い思いをしているかもしれません。


そういう場合は、本当は相手は何を期待しているのか確認してみたり、相手の期待に応えられなかったらどうなるのか想像してみたりすると、発見があるかもしれません。


子供を育てるということは、時間的にも体力的にも、また精神的にも重労働です。人類はずっと当たり前にやってきたことだから、と軽視する声もあるかもしれませんが、昔は大家族や村単位で子供を育てていたわけで、これまでの歴史でこんなに母親が孤立していたことはないでしょう。ですから母親というのは大変なんだということをまずは母親自身が認識して、自分の母親としての基準というものが実現可能なものかどうかを一度見直してみると、なにかヒントになるかもしれません。

2022/12/03

Positive Intelligence

ご無沙汰していました!母親業に時間を取られなかなか更新できずにいました・・・

さて、今日は人間関係や仕事、恋愛、子育てなど様々な場面で役立つPositive Intelligenceという概念を紹介します。

Positive Intelligence(PQと略す)はシャザード・チャミン氏のベストセラーのタイトル(邦題「スタンフォード大学の超人気講座 実力を100%発揮する方法」)でもあり、知能指数IQや心の知能指数EQとはまた別の「真の実力を発揮するために必要な能力」とでも言いましょうか。アンガーマネジメントや、日常のイライラ、傷ついたり落ち込んだり、といった負の感情を処理できるとても簡便な方法でもあります。

私がthe Life Coach Schoolで学んだコーチングの手法は、自分の脳の潜在的な考えを客観的に見(メタ認知し)たり、隠れいてる感情や気持ちの部分を深く掘り下げていくには非常に優れています。でも、その先の、実際に行動の変化として応用していく部分に関しては、コーチがちょっとだけ提案することはあっても、あえて具体的な指示を控えます。理由は「一番いい方法」というのが人によって全く違い、コーチが自分の経験に基づいて指示をしてしまうと、クライアント自身の細かい状況に合ったもっと良い方法が埋もれてしまう危険性があるからです。ただ私の実感として、日本で生まれ育った人(特に男性)は、欧米育ちの人をコーチングしている時と比較して感情や気持ちを意識するということのハードルが高く、目を向けること自体に抵抗すらあるような印象があります。

一方でPQは非常に実践的な概念です。鍛えて育てることもできて、トレーニングの所要時間も10秒単位なので忙しい日常の中でも実践できて、即効性も実感できます。したがってコーチングに馴染みがない人にも自信を持ってお勧めできます。

Positive Intelligenceの考えでは、いつでも実力を発揮できている人というのは稀で、ほとんどの人は実力を発揮することを自分自身の脳が無意識に妨害してしまっているそうです。脳が自分自身を危険から守ろうとする原始的な反応で、子供の頃には我々を危険から守ってくれていたものです。でも大人になってからは重要性が減って、場合によっては害になってしまっているということです。どのように妨害しているかは、その人の生い立ちや性格によって違いますが、大きく分けて10種類の方法に分類されます。

主たる妨害者(Saboteurサボター)はJudge(審判/批判者)で、誰にでも多少なりとも潜んでいると言います。「こんなのじゃダメだ」「なんであの人はこんなに〇〇なんだ」「私はいつも失敗してばかり」のような批判的な心の声はこのJudgeによって発せられています。自分に厳しい人、あるいは他人にも厳しい人というのは、このJudgeの声が強い人かもしれません。子供はこのJudgeによって世の中の正悪や、注意しなければならない危険などを見分けることを覚え、世の中に潜む様々な危険から我々を守ってくれる役割があったのでしょう。しかし、大人になってもこの声が強いと、例えば仕事上の失敗を気に病み、その後のパフォーマンスの妨げになってしまうかもしれません。あるいは失敗を恐れて新しいことに挑戦しにくくなるかもしれません。またJudgeが他人に向けられると、相手はそれを感じとるので、いつの間にか敬遠されてしまう原因にもなり得ます。

Judge以外の妨害者はaccomplice(共犯)と呼びますが、avoider(優柔不断)、controller(仕切り屋)、hyper-achiever(優等生)、hyper-rational(理屈屋)、stickler(潔癖症)、pleaser(八方美人)、hyper-vigilant(怖がり)、restless(移り気)、victim(被害者)に分けられます。ウェブで質問票に答えると自分のサボターのランク付けがわかります。日本語が若干怪しいですが、5分ほどでできるので、興味があればぜひやってみてください。

妨害者の一方で、脳にはSage(賢者)と呼ばれる能力もあります。賢者は脳の中の理知的な声で、explore探究心、empathize共感する力、innovate革新、navigate航海、activate行動からなります。妨害者の声を減らし、賢者の声を発掘することで、眠っている実力を発揮しやすくなるということです。

もちろん実力を発揮することも大事なのですが、私自身はPQが人間関係に応用できることの方がすぐに実感できました。妨害者が活発な状態で人と接すると、その人の中の妨害者を刺激してしまいます。付き合いはじめはラブラブだったカップルが、数年経ったら喧嘩ばかりしている、という例をとってみましょう。はじめは共感や探究といった「賢者」優位だった二人の関係性が、徐々にお互いの妨害者が顔を見せるようになったという捉え方ができます。相手が根本的に変わったというよりも、何かがお互いのサボターを刺激してしまっている悪循環の状態なわけです。そう思うとまだこのカップルの関係は修復可能な気もします。

私の場合は今まで「苦手」と思っていたような人も、実はその人自身が悪い人というわけではなく、その人のサボターが強力なんだという理解に変わりました。不幸な出来事が続いて医療不信になってしまっていたりで、攻撃的な患者さんやその家族と面談をする機会は、医療者なら度々あると思います。以前はただただ「避けたい」と思っていましたが、今では少し違います。相手がなぜ攻撃的になっているのか、共感を持って想像すると、大体は自身の身体や仕事、家族の将来についての不安が火種になっています。自分にも不安があります。怒鳴られたら嫌だな、変なこと言って火に油を注いで、それでこのあと長引いたらどうしよう、訴えられたらどうしよう、他のスタッフに迷惑がかかったら、などなどといった不安は、自分の中の妨害者を刺激し、それが引き金で相手の妨害者も刺激してしまいます。こういった自分の中の不安を生んでいる考えから一旦距離を置いて、自分の置かれた状況でできる最良の対応を落ち着いて考えることができる(探究心)と、自然と相手の攻撃性が徐々に薄れ、お互いのストレスが減り、ひとまず平和に解決する、という経験を何度かしました。

妨害者や賢者に関する各論は本を読んでいただいた方が面白いと思うので今回は割愛します。本を読む時間はないな〜という方のために、チャミン氏がTEDで講演した動画(20分)もあったので、紹介しておきます。

PQを使ったコーチングの無料体験も受け付けていますので、興味がある方はぜひ予約してくださいね。

2022/07/06

Love、愛情について

あなたが今、最も愛情を感じている人は誰でしょうか?子供?恋人や結婚相手?日本語で愛情というとあまりピンとこないかもしれませんが、英語のloveはもう少し広い感覚で使われていて、例えば家族を大切に思う気持ちや、友人を思いやることもloveで表現できます。

現在、私の深い愛情の対象は、小学校受験真っ最中の5歳の息子と、日々口が達者になる2歳の娘です。子供に対してはunconditional love、無条件あるいは無償の愛を実感します。それなのに、時々子供の行動に堪忍袋の尾が切れて「もうママは知らないからね!勝手にしなさい!」とか言ってしまうのはなぜなのでしょう。

子供の頃を振り返っても「自分は無条件の愛を受けて育った」と感じている人は少ないかもしれません。それは、例えばしょっちゅう叱られたり、逆に親の期待に応えるような行動は賞賛されご褒美をもらえたりするという経験に基づいています。親はよかれと思って、躾と思ってそうしているわけですが、子供にとっては愛情が条件付きであるように学習してしまうわけです。

本当に健全な無条件の愛というのは、boundary(限度)と同時に発動することが必須です。Boundaryは、自分を守るための条件だと思ってください。そして、設定した以上は必ず守らないと効果がありませんので、守れる自信のないboundaryは設定しないようにします。そして、相手は相手の好きなように行動する権利があります。子供の躾の例で言うと、部屋を片付けなければ、床に落ちているおもちゃは捨てるというboundaryを設定し、子供にも、理由と共にきちんと伝えたとします。

「お母さんが子供の頃は片付けるのが苦手で、おばあちゃんがいつも片付けてくれていたから、大人になってからも片付けるのが上手にならなくて、大変だったの。あなたには自分で上手に片付けられる大人になってほしいから、うちではこういうルールにするんだよ。でも、片付けても、片付けなくても、ママはいつもあなたのことが大好きなのは、変わらないからね」

その後に子供が部屋を散らかしっぱなしにしていたら、怒鳴る必要はなく、淡々とおもちゃを捨てるだけです。子供は泣き喚くかもしれませんが、次から自分で片付ける可能性は高くなるでしょう。そして、子供には泣き喚く権利があります。子供だって1人の別人格で、感情を持ち、プラスの感情も経験すればマイナスの感情も経験し、自分なりの対処方法や処世術を学ぶ時期なのです。

そもそも子供が部屋を片付けないと、なぜイライラするのか考えてみます。その裏には、「またレゴを踏んで痛い思いをするのはもうごめんだ」「他にやることいっぱいあるのに、また片付けに時間を取られる」「いくら片付けてもまた散らかして、これはあと何年続くんだろう」「旦那は子供の遊び相手とか楽しいことだけやって、家のこういう仕事は目も向けない」「もう◯歳なのにこんなこともできないなんて、私の子育てが間違っているのか」「このまま片付けられない大人になったら自分の責任だ」「この部屋を義母が見たら、私が非難される」こんな潜在的な考えがきっかけになっているかもしれません。でも、その考えって本当に正しいのか、考えてみてください。世の中の片付けられない子供たちってたくさんいると思いますが、全員しょーもない大人になっているんでしょうか?片付けが上手な子供は、全員立派な大人に成長するのでしょうか?立派な大人って、どういう大人ですか?

もっと言うと、イライラや怒りは、もっと不快な感情を誤魔化すための二次的な感情の場合が多いのです。具体的には恐怖や失望、拒絶などの感情です。子供の躾の場合は、子供の将来に関する不安を感じなくて済むように、もうちょっと耐えやすいマイナス感情、目の前のおもちゃや子供の無頓着な表情にイラつく、というものに無意識にすり替えている可能性があります。あるいは、部屋が散らかっているのを見ても何もしない夫にイライラするとしたら、「夫は自分の子育てに関する不安を理解してくれない」「私の気持ちを理解しようともしてくれない」「私のことを大切に思っていない、どうでも良いと思っている」「このまま夫婦仲は冷え込んで離婚に至るのではないか」など、拒絶される恐怖が隠れている可能性があります。

夫には夫なりの子供のおもちゃを片付けない理由があります。自分ほど散らかっていること自体、気にならない。それならば、気になる方の自分が対処するのが合理的です。あるいは、親が片付けてしまったら子供が学ばないから、根気良く待っている。それなら、boundaryの設定に一緒に関わってもらうのも良いでしょう。もしかしたら、どこかで片付けは母親の仕事という先入観が働いているかもしれません。そういう場合でも、そのことを話し合えば、双方が納得のいく代替案を見つけられるかもしれません。ちなみに我が家は逆で、夫がまめに片付けて、私はほとんど手を出さず子供に口うるさく言うというパターンです・・・

unconditional loveは、何も24時間、365日愛情を実感していると言うことではありません。そして、自分の感情を押し殺して相手の言いなりになることとも違います。無条件というのは、何をやっても許容する、と言うこととも違います。

子供が自分の思い通りに行動しない時に、怒りとか失望とかのマイナス感情を伴うことなく、愛情を実感できたら、どんな感じでしょうか。普段怒ってばかりのお母さんの行動が変わると、子供も徐々に変わるかもしれません。

今回は子供を例に話しましたが、unconditional loveは万人に対して抱くことのできる感情です。私の学んだthe Life Coach Schoolの創設者で思考モデルを世の中に広めたBrooke Castillo氏は、実の母親に対する例で話をしています。

Brookeのお母さんはよく、予告なしに家や仕事先にBrookeを訪ねてきたそうです。その度にBrookeは嫌な思いをしていましたが、実の母親に来ないで、と言うのも良くないと思い、毎回我慢していたそうです。しかし、我慢しているが故に、母親には冷たい態度で接することが多かったと言います。そこで、ある時勇気を振り絞って「お母さんのことはとっても大切だし私も会いたいとは思っているけど、私には私の予定があるから、予告なしに私を訪ねてくるのはやめてね。電話の一本もなしにピンポンしてきたら、今後は玄関を開けないから。」と言ったそうです。お母さんは突然のことに深く傷つき、しばらく口を聞いてくれなくなった言います。それでも、Brookeはそのboundaryを守り続けることで、母親にまた会うようになった時には、それまでのように冷たく接するのではなく、一緒にいることを心から喜べるようになったそうです。次第にお母さんもboundaryの意味が理解できるようになり、親子関係はそれまでにないくらい良くなったそうです。

身近な人にunconditional loveを感じることができるというのは、自分自身の幸せにもつながります。そして、見落としがちだけども最も大事なのは、自分に対してもこのunconditional loveを抱くことなんです。自分を叱咤激励しないと何も改善しないのでは、失敗し続けるんじゃないか、と心配するかもしれません。確かに自分に厳しくすることで成功を勝ち取ってきた人は多くいます。でも、必要以上に自分に厳しくすることは負の感情を伴ってしまい、萎縮したり肩に力が入ってしまって、結局理想的な行動に結びつかないことが多いのです。自分に厳しくするやり方には限界があります。同じ目的を達成するにも、自分を受け入れ、温かい励ましの言葉をかけた方が実力をフルに発揮できるのです。

謙虚さが大切とされる日本人には特にハードルが高いかもしれませんが、自分をありのまま受け入れると言うことは、人間関係や仕事、子育て、あらゆる場面で成功への近道なのです。自分に厳しくする人生を歩んできた人にとって、自分をありのまま受けるのは根気強いトレーニングが必要で、コーチングの得意とするところです。今すぐもっと知りたいと言う人は、まずはShirzad Chamine氏の著書Positive Intelligence(翻訳版:スタンフォード大学の超人気講座 実力を100%発揮する方法)をお薦めします。

2022/04/01

女性として、日本で生きる

コーチングの関係で、アメリカ人やイギリス人、特に女医さんが多いんですが、そういう人たちと情報交換していて、カルチャーショックとまではいきませんが、日本との違いを感じることが多々あります。その中でも女性に特有の問題を考えてみました。

まずは女性の役割分担です。親世代よりは良くなったんでしょうが、家のことって、なんとなく女性がやっているというのが、日本ではより顕著に思えます。共働き夫婦でも家の仕事は女性が多めにやっていて、その反面男性は外での仕事を長時間やっていたり、収入の上で上回っているんではないでしょうか。例えば医者夫婦で労働時間も収入も同程度でも、家事の分担は完全に平等ではなくて、女性の方がやっているという夫婦もいると思います。女性の社会進出が日本よりも進んでいるアメリカでさえ、それに見合った男性の家庭への進出は進んでいなくて、女性の総労働時間は男性と比較して週平均で20時間多いといいます。


いやいや、うちはちゃんと分担している、という家でも、その内容に注目してみると興味深いです。男女で子育てをしている家庭を例に取ると、女性は例えば兄弟喧嘩の仲裁や泣き叫ぶ子供をチャイルドシートに座らせるとか、ストレスレベルの高い仕事をより多くやって、男性はゴミ出しや食器洗いのようなストレスレベルの低い仕事を分担していることが多いとも言われます。一昔前はご主人がゴミ出ししてたら偉い、くらいの感覚だったかもしれませんが、ゴミの日をきちんと認識して、家中のゴミ箱を把握して、生ごみが臭くなる前にちゃんと処理して、新しいゴミ袋をセットして、一連の作業を継続するのとは雲泥の差です。料理ひとつとっても、家族の食事の担当をすると言うことは、家にある食材や自分のレパートリーから献立を計画し、必要な買い物を済ませ、下ごしらえ、調理、盛り付けまでを含み、毎日ともなると工夫もエネルギーも必要です。私は料理が嫌いなわけではないのですが、2歳の娘がまだ集中して1人で遊ぶことができなくて数分でママを呼びにくるというのもあり、休日に3食作るのはかなりのストレスです。一生懸命考えて作ったご飯を食べてくれないと、なおさら疲れを感じます。


家事を「手伝う」と言う感覚は、例えば専業主婦がいて、夫が少し家事を分担する時に使う表現であって、共働きの場合の家事は「それぞれの持ち分を責任を持ってやる」というのが本来のスタンスかもしれません。


ただし、他人の行動や言動はコントロールできない(例え配偶者でも)ので、例えば妻が「生ゴミが臭くなるのは耐えられないのでごみはきちんと出したい」と思っていて、夫はキッチンに立ち入らないから臭いも大して気にならないのであれば、気になる方がやるべき、ということになります。もちろん、「生ごみが臭くなって困るから、必ず出してね」とお願いすることはできますが、夫が時々忘れてしまっていても、普段から臭いで困っているわけでないのですから仕方がないことなので、こちらも感情的になるべきではないのです。


子育てに関しては、生物学的に女性に傾倒しがちなのは万国共通ですが、男性の育児への参加は諸外国と比べて遅れているという感覚があります。それは、決して夫のせいとかではなくて、職場の理解とか、社会の風土全体として女性がやることが当たり前という感覚が根強いからかもしれません。あるイギリス人の女医さんが、日本人医師の集団(全て男性)を地元の酒場で接待した時に、まだ数ヶ月の子供を連れて行ったらしいんです。その時にちょうど授乳の時間になったので、彼女は授乳ケープで隠しておっぱいをあげながら会話を続けたらしいんですね。なんとなく想像つくとは思うんですが、その日本人男性たちは、かなり戸惑っていたと言います。公共の場で授乳することに不慣れということもあるとは思いますが、そんなに小さい赤ちゃんがいるのに、酒場に来ていること自体に違和感を感じたのでしょう。その違和感を勝手に解釈してみると「小さな赤ちゃんがいる母親は育児に専念しているのが本来の姿」という常識がおそらくあって、そこに感じた違和感だったのかもしれません。


赤ちゃん関連で言うと、別のイギリス人のコーチで、日本に数年住んでいたという方が言っていたんですが、公共の場で赤ちゃんが泣いていることに対して、日本では厳しい目線を感じた、と。欧米の方が高級レストランをはじめ子供が入れないところがたくさんありますし、棲み分けが進んでいるように思います。日本語には「お子様」という表現があるように、接客では子供が大事にされる一方で、泣いている赤ちゃんは許容されにくく、公共の場であればなんとかして泣き止ませるかその場を離れる、という風潮があります。それでも、おむつも変えたしお腹も空いていないし、体調もわかる範囲ではそんなに悪くなさそう、でもグズっているという場合に、周りから向けられる目線が「そんなこともあるよね」という目なのか「親がなんとかしろよ」という目なのかによって、その時に我々の頭の片隅に浮かぶ考えは変わってくると思いますし、親の精神的なストレスは全然違うんじゃないかと思います。


第2に、女性の加齢に対する圧倒的なマイナスイメージです。ある年齢を境目に、加齢とともに女性らしさが失われるかのような感覚です。若見えとか「ツヤ」とか「ハリ」といったキーワードへの執着もその一つの表れだと思います。欧米でももちろん似たような現象があるのはあるんですが、日本では文化的な要因(女性は嫁に行った先の家のやり方に染まれるように、若い方が良いという感覚)も手伝い、より強調されている感じがします。それに伴い男性の態度が一変することも日常的に目の当たりにし、日本人の民度の低さに情けなくなることもあります。もう30年くらい前の話になりますが、私が小学6年生で日本に帰国した時、当時30代後半だった母が、日常でやりとりをする男性、例えばバスの運転手や役所の係員に人として接してもらえていない、自分が透明人間のような感覚を覚え、逆カルチャーショックを受けたそうです。母は背が高く目立つタイプで、若い頃はそれなりにチヤホヤされたようなので、ますますギャップを感じたのかもしれません。老けたらそんな扱いを受けるんだ、とわかっていたら、そりゃ見た目の若さを追求したくなるのかもしれません。


今ならば、私はこんなアドバイスをするでしょう。自分と接する相手の態度というのは、その相手の育ちだとか常識、考えの表れであって、自分の価値とは100%無関係。むしろ、相手の態度に一喜一憂することは、自分の価値の判断をその相手に委ねてしまっている、パワーバランスを自ら相手に与えていることになる。バスの運転手に自分の価値を決めてもらう、それを望んでいるんですか?と。例えば白髪が増えたり、服を脱げば妊娠線があったり、ボディラインが下がっている。それって本当に恥ずかしいことなんでしょうか?親友がそういう悩みを打ち明けてきたとして、その親友の人間としての価値って、そういう外見で下がっちゃうと思いますか?思わないなら、自分にもそのおんなじ価値観を向けてあげることって、回り回って人への優しさにも繋がるから、実はとっても大事なんじゃないかな、と。


第3に、女性(の意見)が軽視される現実です。某オリンピック担当大臣の不祥事も記憶に新しいですが、知り合いの女性で高校教師をやっていた方が、職場の委員会に委員として選出されたので出席してみると、その場での議論はあくまでも形式上のもので、実質的には男性の委員同士で事前に決まっていて、女性メンバーの意見を出せる状況ではなかったと言っていました。私自身は医師という職業柄、比較的対等な立場で接してもらえているんだろうと感じていますが、それでも患者さんやそのご家族との会話で「男の先生だったらこんなこと言わないんだろうな」とか、もう少し話を聞いてもらえるのかもな、と感じたことはあります。同世代でも感じたことはあります。もう10年以上前の医局の同期との出来事ですが、術前のプレゼンテーションの準備で私がノートパソコンに接続コードを挿そうとした時、コードの向きが違うのに気づかずグイグイ押していたんですが(笑)、男性の同期に「これだから女は・・・」と言われ、「女は関係ねーだろ!と」ブチギレたことがありました。残念ながら、まだまだ日本には女性蔑視が蔓延っているのかなー、と思います。男女でものの言い方ややり方が違ったり、女性が男性の前で自分の意見を言うのに慣れていないのだとしたら、それは後天的に躾された結果がほとんどだと思います。実はそれって、男性中心の組織で、男性の都合が良いように出来上がっているものも多いんじゃないでしょうか。男女の生物学的な違いで得意・不得意が生じることもあるかもしれませんが、それが当てはまらない人だっています。社会的な躾の程度というのは個人差も大きいし「女性だから」とか「男性だから」と決めてかかるのは、今の時代、危険なのかもしれません。


男性だけが楽をしていると言っている訳ではなくて、男性には男性特有の問題があるのは当然です。私はコロナによる保育園の休園を三回経験しましたが、毎回、連絡が入った翌日からの代替保育手段を必死になって探すのも、代わりが見つからなかった日は仕方なく仕事を休んで家で子供をみるのも、自動的に私でした。男性の育休問題にも共通しますが、女性が家庭のために仕事を犠牲にすることはある程度仕方がないことと捉えられますが、男性の場合はどうでしょうか。男性が職場に「保育のあてがないから仕事を休む」と伝えれば「嫁さんは?」と聞かれるでしょうし、奥さんが仕事して夫が休むという状況は、ともあれば男性が「やる気がない」とか「キャリアを真剣に考えていない」と捉えられて、その後の人事や昇進に影響してしまう可能性だってあります。他にも、上司に飲みに誘われた時に女性は断りやすいけど男性は断るのが難しい、とか、男性にしかわからない苦労だってたくさんあると思います。


男女平等equalityでさえまだまだなのに、公平equityなんて、私の現役のうちには無理かもなぁと思います。フェミニストで、こう言う状況を打破しようと戦っている人もいますし、自分も微力ながら応援したい気持ちはあります。それと同時に、女性と男性だと社会的な立場も違うし、こういう差って仕方ないんじゃない?と言う意見も、すごく理解できます。コーチングの理論でも状況って変えられるものじゃないですし、決してこういう状況に争うことを勧めているわけではありません。ただ、日常のなんかモヤモヤした気持ちとか、なんでこんなに大変なんだろうっていうストレスとか、その裏には、女性特有の問題を無意識に抱え込んでしまっていることが実はけっこうあるんじゃないかな?と思うんです。


例えば実際に子供が生まれると、生まれる前にはわからなかった苦労が次々と襲ってきます。でもそれは、どこかで「母親が全て解決しないといけない」とか、「立派な大人に育てないといけない」っていう責任を、必要以上に自分に課してしまっているせいで知らずのうちに苦労を増幅しちゃっているからであって、もしその事実に気づけて、少し考え方を柔軟にして、そのプレッシャーを軽くすることができれば気分的にずいぶん楽になると思うんです。


だから、こういう問題を仕方がないことと片付けて自分だけ耐えるのではなくて、自分が苦労しているんだったら、なんで苦労と感じるのか、なにか工夫できることはあるのか、建設的に考えてみるのがおすすめです。自分が耐えることで、その反動で子供にきつく言ってしまったり、夫への愛情が薄れてしまったり、気づかないうちに何か弊害が出ているかもしれません。日本では子供が生まれた後に夫婦関係が冷めるのは仕方がないことのように思われているかもしれませんが、もしかしたら、子育てという夫婦にとっての初めての大きな課題が生じた時に、黙って自分で解決しようとするあまり、夫婦関係が犠牲になっているということって、意外と多いんじゃないかと思います。


そういう夫婦関係が理想なら、そのままでもいいと思います。でも、例えば自分に娘がいて、その娘がいつか母親になった時、いろんなプレッシャーに黙って耐えて、場合によっては心を病んでしまったりという可能性を想像してみてください。あるいは息子でも、自分達のような夫婦の関係性を見て育って、息子が将来結婚した時に、どんな夫・父親になるのか?母親だから、とひたすら抱え込んで頑張る、あるいは父親だからと言って家庭では一歩引いて仕事に没頭することよりも、自分の子供たちには、ちゃんと夫婦で話し合えて健全な関係を築くことができたり、子育てを楽しんでほしい、と思うなら、まずは自分がお手本になれているのか、一度振り返ってみるのもいいかもしれません。


私が勉強したthe Life Coach Schoolでコーチの指導をしているRae Tsai氏が、“Asian Life Coach Collective”という、アジア人コーチをインタビューする形式のPodcast(英語)を配信しています。私も、日本で感じる男女格差について、アメリカの企業で男女格差の解消に携わっている日本人女性のマキノ氏と共にインタビューしていただきました。先日それが配信されたので、英語ではありますが、興味のある方は聴いてみてください。

https://podcasts.apple.com/us/podcast/breaking-through-gender-stereotypes-in-asian-society/id1604089725?i=1000555789607


それから、今日紹介した内容の一部は、心理学者のRick Hanson氏がKatrina先生とのインタビューで語っていたことで、私のPodcast「医師のための減量コーチング」第7話で日本語で紹介していますので、そちらもよろしければ聴いてください。

https://www.podbean.com/pu/pbblog-g93dp-abf310

2022/03/02

捨てられない人

以前、片付かない家について書きましたが、その関連で「捨てられない人」について書きます。

何を隠そう、私もなかなか捨てられない人です。


保育園から帰宅すると、時々カバンの中にプリントが入っていて、その中には記入&提出が必要なものもあります。帰宅後は、子供たちの就寝時間を気にしながらご飯やお風呂、スキンケア、着替え、翌日の保育園の物品の準備など怒涛のように時間が過ぎ、片付けは後回しにして、寝かしつけながら一緒に寝てしまうこともしばしば。プリントをなくすこともままあります。先日、そんなプリントの提出期限が迫っていることに気がついたのですが、なかなか見つからず、最終的には3日かかってようやく探し出しました(当該プリントは子供に切り刻まれ、古紙としてまとめられていました^^;)。


ちょっと思考モデルに当てはめてみると、2パターン出来上がりました。


まずは自分で作ったパターン。


C(状況)保育園の提出物を探し出すのに3日かかった

T(思考)大事な提出物なのに、いつもなくなっちゃう

F(気持ち)不安

A(行動)「この紙は捨てていいのか」、の自分の判断が信用できないため、判断自体を先送りにして、3秒考えれば捨てていいことがわかるようなものでも捨てない

R(結果)紙の山が出来て把握しきれなくなり、本当に必要なものが埋もれてしまってみつからない


二つ目は、コーチに助言してもらったパターン。他人の視点が入ることで思ってもみなかった発見があるので、自分がコーチになった後も、コーチを雇っている人は多いです。


C(状況)保育園の提出物を探し出すのに3日かかった
T(思考)親として責任感に欠けている

F(気持ち)自責

A(行動)自分を執拗に責める、家族のせいにしてみる(片付けてくれる夫を責める、片付けない子供を責める)、建設的な解決策を見出そうとしない

R(結果)無責任さを行動で証明している


こうやって、それぞれの結果が、潜在的とはいえ、自分の考えから導き出されているということを目の当たりにすると、自分のふとした思考の癖が、いかに自分にとってマイナスの結果を生んでしまっているかを再認識します。そうすると「いつもなくしちゃう」って考えるんじゃなくて、冷静に、ちゃんとなくさずに提出できているプリントの方が割合としては多いこととか、どんなに責任感のある親でも提出物なくすことくらいあるよね、とか、そもそも責任感のある親ってなんだろう、子供がちゃんとご飯食べてお風呂入って薬も忘れずにあげて、就寝時間が遅くなり過ぎないように管理して、私も責任感ある面も結構あるよね、とか、そういうことにも目が向けられるようになって、自分を責めない考え方に寄せていくことが可能になります。


もう一つ付け加えると、自責の念というのは、マイナス感情の中でもキツい部類に入ると思います。こういう激しくマイナスな気持ちが湧いてくると、それを別の感情、もうちょっとマシなマイナス感情にいつのまにかすり替えてしまうことが多々あります。そういった時によくあるのが「怒り」です。人や状況に対して怒りを抱くことで、自責という苦痛から解放されます。2020年の春にコロナが騒がれ始めた頃、今までにない不安を感じた人も多いと思います。その大きな不安を身近な人へのイライラにすり替えていた人も、いたかもしれませんね。


あなたがいちばん恐れる感情って、なんでしょうか?私の場合、恥(人前で恥をかくこと)とか、人に「拒絶」されることでしょうか。どんな感情でも、抵抗すると、火に油を注ぐように増強してしまい、逆に感情に自分から歩み寄っていくことをおぼえると、あまり怖くなくなると言います。感情はどれでもつきつめれば、脳内に発生し身体に伝わる化学的シグナルの伝達です。その化学的シグナルだけで死ぬということはあり得ません。そう自分に言い聞かせ、感情をきちんと身体で感じてあげると、数分で身体的な症状は軽くなります。


少し脱線しましたが「捨てられない」という行動にも、「もったいない」とか、何かその原因となっている考えがあるはずです。ダイエットにも通じることですが、行動を変えたいのなら、まずその根本の思考を変えないことには結果が持続しませんから、もしあなたが今「捨てられない人」で、いつかは「捨てられる人」になりたいのなら、いちど思考を整理してみることをお勧めします。


さて、Podcastの方も更新しています。現在8エピソード配信していますが、最近配信した第7話のリック・ハンソン氏とのインタビューがオススメです。Katrina先生の300近くあるエピソードの中でも特に印象に残っているもので、元ネタは1時間近くあるのですが、頑張って翻訳しました。録音の段階になって、インタビュー形式を一人二役で音読したらややこしいな、と気がつき、Hanson氏役として急遽私の父に出演を依頼しました。素人2人なので聞きづらいところがあると思いますが、もとの内容がとても良いので、ぜひ聴いてみてください。


体調不良のとき

こどもが集団生活で感染症を持ち帰ることは日常茶飯事ですが、親もそれをもらってしまうことだってあります。いくら感染予防の知識があっても、きちんと実践するだけの余裕がなかったり、添い寝していれば、夜中知らない間に顔が急接近していたり・・・あるいはホルモンバランス、加齢にまつわる様々な...