約4割の母親が子供を産まなければよかったと思ったことがある、という調査結果があります。
その背景には母親としての責任の重さ、母親らしさといった世間の期待などがあるのでしょうか。後悔までいかなくても、「思ってたんと違う」という感覚を持ったことがあるお母さんはもっと多いのではないでしょうか。
私の場合、産まないほうが良かったと思ったことはまだありませんが、私が産んで良かったんだろうかと思うことはよくあります。例えば子供にきつく当たってしまったりした後は、自己嫌悪とともに、こんな母親で子供たちはかわいそう、やっぱり私には無理なんだろうかと落ち込みます。
その根本には、母親とはこうあるべきという理想像があり、自分の中の矛盾が見えるとスイッチが入ってしまうようです。では、自分がどんなお母さんだったら自信を無くさずに済むのか考えてみると、
保育園の提出物などの管理ができていて、基本的には忘れ物をしない
家は片付いている
肌に触れるものは清潔を保つ
家にいる時は栄養バランスの取れた手料理を食べさせる
子供の身長体重を基準値内に収める
虫歯を作らないよう、仕上げ磨きとフロスは365日欠かさず行う
毎晩入浴させて清潔を保つ
アトピーの外用薬を毎日適切に使用する
夜9時半までには寝かせる
テレビや動画の試聴時間はなるべく短く
発達に良い外遊びや創作的な遊びをさせる
教育や、将来役に立つ習い事には金銭や時間を惜しまない
習い事の送り迎えの安全を確保する
自分のできる範囲で怪我や病気から守る
服薬を忘れず続ける
休日は子供が楽しむことを第一にスケジュールを組む
兄妹で不公平感が生じないよう気を配る
きつい口調で叱らない
スキンシップや愛情表現を欠かさない
ダメなことはダメと伝え、正当な理由なしにルールを曲げない
ザッとこんな感じです。
ちょっと医師目線の基準も入っているかもしれませんが、一つ一つをみると、それほど極端な基準はないと思っています。
ここへさらに仕事をする上での基準というものが加わります。子供が生まれる前、手術をバリバリしていた頃と比べるとだいぶ項目が減っていますが、こんな感じでしょうか。
遅刻しない
患者さんに起きる様々な問題に対しては、その時自分にできる最善の対応をする
患者さんや家族の信頼を得るため話をよく聞き、こちらの方針をなるべくわかりやすく伝える
他職種と普段からコミュニケーションをとり、協力体制を保つ
書類などの雑用は貯めない
頼まれた仕事に関しては(できるだけ)嫌な顔をせず引き受ける
誤解の生じにくいよう表現を工夫して指示を出す
このような基準を持っている上で問題になるのが、この一つでも基準に達していないと、つまり100%合格でないと、母親・勤務医として不十分という感覚が活性化されてしまい、自分が望んでいない結果を産んでしまうのです。思考モデルを復習すると、脳内の無意識な考えが気持ちに、気持ちが行動に、行動が結果に結びつくのですが、この場合「母親として不十分」という考えが「自己嫌悪」だったり「がっかり」という気持ちに、その気持ちが子供にキツく当たる、家事をやる気が起きない、といった行動に結びつき、最終的に、やはり自分が母親として不十分であることを証明する、という結果を産んでいるといことです。脳は常に、自分の考えの正当性を証明するような行動を選ぶので、無意識の考えというのは放っておくと危険なこともあるんですね。
このような基準を無意識にでも持っていることは、健全なことなのでしょうか。普段から9割守れている状況なら、持ち続けても問題ないでしょう。でも私の現実はだいたい30−40%でしょうか。疲れていたり体調が悪い時は特に得点が下がります。そうすると毎日、上に書いたような思考サイクルが働いてしまい、子供にキツく当たることも増えてしまいます。
こういう時、自分の列挙した基準の中で優先順位をつけてみてください。その際に、なぜそのような基準ができたのか、よく考えてみることです。その基準が守れないとどうしてダメなのか?そして、その理由の正当性を問うのです。
例えば保育園の提出物をしょっちゅう忘れる母親ってどうでしょう。「ルーズ」「先生に迷惑をかけている」「子供が影響を受けたらかわいそう」という厳しい意見もあるかもしれません。では実際に提出物を忘れるとどうなるのかご存知でしょうか。私は常習犯なのでよく知っているのですが笑、先生が「◯◯の用紙がまだ出ていませんでしたので、◯◯までに持ってきてください」と教えて下さったり、用紙を無くしてしまった時にはもう一枚くださったりして、最終的には遅れて提出はできているのです。先生に余計な手間をとらせていることは確かですが、それもひょっとすると害ばかりではないかもしれません。そこで自ら「ルーズ」などとマイナスなレッテルを貼ることは、そうやって自分を叱咤することで次に同じ失敗をしないで済むのならまだしも、私のような常習者にとっては百害あって一利なしです。それよりも、今後どうやったら提出物の紛失を防ぎ、締め切りに間に合うよう管理するのか、作戦を立てる方がよっぽど建設的で効果もあります。
このようにして、自分でいつの間にか決めている様々なルールには、その裏に「世間の常識」という名の、仮面を被った悪魔が隠れていることが多いのです。世間の常識に何の苦痛もなく従えるならいいのですが、誰にだって不得意な分野や、その人特有の事情というのはあって、そういう理由で世間の常識とは少し違うことをしているだけなのに、劣等感や罪悪感を抱いてしまうというのが我々、特に女性によくみられるパターンなのかもしれません。
自分の中でいつの間にかできた「守るべき基準」が、実はバカらしい理由からできていることも多々あります。ぜひ一度ルールを「それって本当かな?」と疑ってみてください。そして本当に大事な基準と、そうでもない基準を区別し、少しずつ取捨選択できると、徐々に行動や結果に変化が現れるでしょう。
「私ってダメな母親だな」とか「またやっちゃった、何やってるんだろう」というような頭の中の批判的な声というのは、私たちが同じ失敗を繰り返さないよう、脳が大袈裟に警報を鳴らしてくれている結果生じているものです。でも先ほどの思考モデルの例でもわかるように、あまりいい結果に結びつきません。そういった反射的なネガティブな考えを鵜呑みにするのではなく、あ、また脳が大騒ぎしている、と気がつくことができれば、一呼吸おいて冷静に改善策を思いつくことも可能になります。
以前私は保育園の先生に言われる一言一言が批判のように感じて、反射的に言い訳や自己防衛のような反応を示していた時期がありました。今では先生のコメントを一意見としてありがたく聞けるようになり、自分で吟味して必要と思えば反映させることができるようになってきました。いまだに提出物を忘れることがあるのは、おそらくどこかで「まあどうにかなるやろ」とか「別に大したことないか」という甘えが残っているからでしょう。
最後に、私はほぼワンオペ育児ということもあり「妻としての基準」が非常に低いところにあっても許されているという、一部では恵まれた状況にあることも付け加えておきます。多くのお母さんは、自分の中の母親像に加えて、旦那さんやお母さん、義理のお母さんなどの基準も背負い込んでもっと肩身の狭い思いをしているかもしれません。
そういう場合は、本当は相手は何を期待しているのか確認してみたり、相手の期待に応えられなかったらどうなるのか想像してみたりすると、発見があるかもしれません。
子供を育てるということは、時間的にも体力的にも、また精神的にも重労働です。人類はずっと当たり前にやってきたことだから、と軽視する声もあるかもしれませんが、昔は大家族や村単位で子供を育てていたわけで、これまでの歴史でこんなに母親が孤立していたことはないでしょう。ですから母親というのは大変なんだということをまずは母親自身が認識して、自分の母親としての基準というものが実現可能なものかどうかを一度見直してみると、なにかヒントになるかもしれません。
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